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​源光寺の歴史

貞松山 無量院 源光寺は

阿弥陀佛を本尊とする

浄土宗のお寺です。

また葛西公ゆかりのお寺でも

あります。

​源光寺の創建

當寺は今を去る387年前(寛永十二年・1635年3月)※2022年現在

相野谷領主二代 葛西重常公が、初代 葛西俊信公逝去に際し

その隠居所だった現在の源光寺立地場所に、松蓮社良貞上人旧達大和尚を招き、父の供養と八百年の歴史を持つ鎌倉武士 葛西清重公を始祖とする

葛西家先祖代々の菩提の供養のために創建されました。

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​参勤交代の高野槙

葛西家御霊屋の脇に高野槙の大木があります。

この槙は葛西家初代 葛西俊信公が参勤交代の際に、

江戸より持ち帰り植えたものと伝えられています。

俊信公が江戸から持ち帰った3本の槙は、源光寺に1本、葛西家山崎館に1本、飯野川居館(現:飯野川小学校)に1本植えたとされています。

飯野川居館の槙は、大正年中に台風で倒れ、葛西家山崎館の槙は、植えて間も無く枯死したとのことですので、

そのため、源光寺の高野槙が現存する唯一のものとなっています(参考文献:わがふるさとの町飯野川,1965)。

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​葛西家初代 葛西清重公

葛西家の初代は、葛西三郎清重公です。

源頼朝に命ぜられ、奥州藤原氏討伐に従軍し、勲功をあげ

奥州総奉行に任命されました。

その所領は広大で、現在の岩手県南部から宮城県石巻に

至り、平泉の検非違所を築くことも許可されました。

鎌倉幕府の初期政治に参加した人物として知られています。

晩年は出家し、壹岐入道定蓮と呼ばれました。

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​三界萬霊等

天保7・8年(1836・1837)の大飢饉の際、疫病や飢餓に

よって多くの人が横死したため、当山十八世良毫上人は

亡くなった人々の遺骨を広く郡内から拾い集めて、当山に

埋葬しました。

その後、亡くなった人々の供養のため当山二十一世

良導上人が慶應3年(1867)春彼岸中日に三界萬霊等を

建立しました。

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